世界最強を考える その3(終着点は出発点だった)

お酒を飲み過ぎた次の日、朝起きて唐突に「世界最強ってなんだ?」という疑問にかられ、急遽考えながら書いてみた文章ですが、いよいよこれでラストです。

なぜなら、第1話・第2話と書き進むにつれ、ある程度の『世界最強』が見えてきたからです。

正確に言うなら『世界最強』が見えて来たというよりも、『世界最強の仕組み』が見えてきたということですね。

まず、第1話で結論が出たように、世界最強を決めるのに本当の<ノールール>にしてしまうと、何も起こらないということ。
何も起こらないというのは変な言い方ですが、逆から考えてみれば、その昔、猿達がノールールで最強を目指して行った結果

・知恵を付け
・道具を使えるようになり
・言葉を操るようになり
・さらなる生命力を付け

と進化していった結果が、今の人類であると。

つまりはノールールの勢力争いの結果が現在の世の中であると。

ということは、今本当の意味でノールールで戦いをやったとしても、最終的な結果は現在の状態になるということですよね。
つまり、ノールールで何かを決めようとしても、何も起こらないということです。

ということは、何かの戦いをやる場合、最強を決めようとする場合は、おのずとそこにルールがないと成り立たないということです。

よく昔から『ルール無用の』とか『なんでもあり』とか言いますが、つまりは絶対的にそんなことはあり得ない訳です。
やる以上絶対にルールが必要ということです。

そして、第2話で分かったことは『プロモート』がなければ世界最強を決めることはできない、ということです。
世界最強の人物がインドの山奥にいたとしても、それを世間に『プロモート』できなければ、そんなやつの存在は誰も知りようがない訳です。

逆に言えば、「彼が世界最強だ!」とプロモートさえできれば、その人を世界最強にすることも可能ということです。

ということで、第1話と第2話を踏まえると

(1)ルールがある
(2)「世界最強」とプロモートできる

これが『世界最強』である(あるいは、『世界最強』を作れる)最低条件な訳です。

これって何だ?
と考えたところ、皮肉な話ですが、それってそもそものスポーツ全般な訳です。

つまり、ボクシングしかり相撲しかり、サッカーしかり野球しかり。
あるいはスポーツだけじゃなく、音楽でも映画でもそうです。
(グラミー賞やアカデミー賞で考えれば分かりやすいと思いますが)
ルールがあって、そのルールの中で『世界最強』を決めてプロモートできる。

つまりは既存のスポーツ/エンターテイメントこそが『世界最強』なのです。

全く皮肉な結果ですが、既存のスポーツ/格闘技ではなく、本当の世界最強を作ろう!と始まったのが異種格闘技だったり、僕らみたいな一般人が、既存のスポーツやルールに飽きて、本当の世界一を考えよう!として来た訳ですが
世界最強を考えれば考えるほど、実は既存のスポーツの枠から出ることはできない訳です。

こないだWBCという大会が始まって、一部で物議をかもしましたが、あれってほんとこの『世界最強』を即席で作ろうとした大会だと思うんですよ。

・独自のルールを決めて
・そこで勝った国を『世界最強』とプロモートする

というシステムで、急ぎ足で作った野球の大会。

だから、人によっては「これって単なるビジネスじゃねえか?」「アメリカ主導じゃないか?」と不満が出た訳ですが、結局はこの大会だって数年もして定着すればサッカーのワールドカップやその他の由緒ある大会と同じように『世界最強』を決める正式な大会になるでしょう。
逆に言うと、その他の大会も全て最初はこんな形で始まった訳ですね。
独自のルールを決めて、そこでの優勝者を『世界最強』とプロモートするということを勝手に決めた訳です。そこに歴史というものが加わると、いつの間にかそれが正式な『世界最強』になってしまうという。

ということで結局は『世界最強』ってなに?ってことになったら、ボクシングなら『世界チャンピオン』、サッカーなら『ワールドカップ優勝国』、映画なら『アカデミー賞受賞者』という既存のシステムの『最高峰』ということになっちゃうんですね。

朝からつらつらっと、3部に渡って考えた結果、意外と最終的に辿り着いたのは出発地点だったという、そういうリトルトリップでした。