パリ考 その2

<前回までのあらすじ>
10年ぶりにパリを訪れた小宮山だが、思ったよりもパリに刺激はなく、すっかり落胆してしまうのだが、そんな中で自分なりの『パリ考』に辿り着き始め、それなりの楽しみ方を発見して行くのであった。
 
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という事でね、パリへは京都へ行くような感覚で行くと一番楽しめるかなと思いましたね。古くからある文化・街並の中にいかにして新しい物が融合して行くかというのを見る。一見古く思える物の中に新しさを見つける旅とでも言いましょうか。そういう感覚が一番良いかなと。
 
だってね、どんなにオシャレな洋服を売ってるお店でもね、店先に犬の糞とかあったらやっぱオチるじゃん・・。そういう街なんですよ、簡単に言えば。いや、冗談ではなくパリを考えるのにこの『犬の糞』というのはすごい重要なファクターですよ。もう街中糞だらけですからね、パリは。ここにフランス人らしさがすごく出てると思う。彼らはすごいオシャレだし遊び上手だと思うんですよ、でも犬の糞は気にしない。これすごくフランス人の感覚を表してると思うよ。すごい可愛いグッズを売ってるんだけど建物の壁はボロボロみたいな店いっぱいありますからね。そこら辺の感覚ってやっぱ日本人と違うんだよね。
 
体臭とかもね、体を洗ってきれいにするんではなく香水をつけるというね。それによって香水文化がすごく発達してるっていう、そこら辺の美意識って絶対日本人と違うじゃん。糞にしろ、体臭にしろ、「出る物を拒まず」とでも言いましょうか・・・日本人だったらまずそこら辺をきれいに片付ける所からお洒落って始まると思うんだけどね、フランス人はそういうのそのままなんですよ。悪く言えば『不潔』ですが、良く言えば自然の流れの中でうまく調和してお洒落してるって感じ。
 
完璧に古い訳でも、完璧に汚い訳でもない。だからといって完璧に新しい訳でも、完璧にきれいな訳でもない。古いものや自然の物を受け入れた上で、その上に新しい物をかぶせて行くっていう感じですかね。まあなんだかんだ言っても犬の糞はちゃんと飼い主が片付けて欲しいですけどね。でもまあ、そこすら基本的に動物が元々自然で生きていたという考え方で見れば正しいのかもしれないですけどね。
 
そんな訳でねパリを考える上では、『古い街並』『犬の糞』『体臭』っていう、大まかに言うと排泄物と言いますかね、世に出された・残された物っていうのがすごく大きな要素だなって思いますね。そういう物を受け入れてみた所で、初めてその先に美しさ・楽しさ・新しさが見えてくる。そんな街なんじゃないかなと。なんかそう考えると結構奥深くて、面白い街だなって。そもそも人の生活ってそういう事でしょ、きれいな事だけじゃないし新しい感動だけじゃない。どんな綺麗な人でもウンチはするし、どんな新しい建物だって時と供に古くなる、もちろん人間だって歳をとる。そういう全部を含めた生活の中に、いかに美を発見するか。なんかそういう事を表してるのかなって。ただ究極的に綺麗な事、新しい事を求めるのではなく、生活の中にこそ美を求めてるのだろうなって。
 
パリを発つ2日前の夜に国立近代美術館に行ったんですが、訪れた時間が遅かったという事もあり閉館ギリギリまで展示を観ていて、外に出た時にはすっかり街も暗くなっていたんですよ。その時美術館の外側にある巨大なエスカレーターを降りながら見たパリの夜景は本当に綺麗なものでした。街の灯りは本当に暖かく、それは人工的に作られたラスベガスなどの夜景とは違うもので、明らかにそこに生活を感じる光でした。生活の中の素敵な部分も汚い部分も全部含めた上で、暗闇の中、全てを綺麗に照らしてしまう街の灯り、パリの街全体が本当に素敵なものに見えました。
 
なんかその夜景を観た時に、僕はパリが好きになりました、帰国2日前にしてやっとね。「嗚呼、素敵な街だなあ」って素直に思いましたね。決して全てが完璧な街ではない、そこが逆に暗闇の中の灯りによってボヤけて調度良い加減になったんですよ。例えばL.A.の夜景は絶対にボヤける事がない、綺麗な街は綺麗、危ない街はもっともっと危なく見える、決してそこは交わらないんですよ、例え飛行機で上空から全体を見たとしてもね。でもパリはなんか至る所に素敵な事や汚い事が点在してるんだけど、それが夜景となった時に全てがボヤケて一つの素敵な絵になってるみたいだったんですよ。
 
だから僕の『パリ考』の最終論としてはね、パリでは必ず夜景を楽しんで欲しいですね。そしたら必ず綺麗な1枚の絵の中に自分がいる気がしてくるんですよ。そこにはちゃんと色んな要素を含んだ生活のある、ただの作り物ではない絵が見えて来ると思いますよ。