ピアノレッスン4

<はなすじ>
【鼻筋】
眉間(みけん)から鼻の先端までの線。はなぐき。鼻柱。鼻道。「―が通った人」
[広辞苑第五版]
 
彼がピラミッドから落っこちてから1ヶ月程が過ぎ、彼のお尻の痛みが収まった頃、彼が珍しく自分から「先生、この曲やりたいんですけど」と1枚の楽譜を持って来ました。
それはその当時流行ってた歌謡曲の楽譜だったけど、その曲がなんだっかはすっかり忘れてしまいました(とにかく俺もやる気なかったんで、その曲がなんだったかなんて全く覚えて無い・・・)。それにしても、一体なぜ彼が突然自分から楽譜を用意してまでその曲を教えてもらいたくなったのかと思ったら、学校でクラス対抗の音楽発表会があると言うんですね。
で、その曲が表題曲になってて、彼はその曲をなんとか覚えてクラスのピアノ担当になりたかったんですよ。
ただ、本番のピアノ奏者は当然クラスで1人だけで、志願者は彼を含めて4人もいるっていうんですね。はっきり言ってそれを聞いた時点で「そりゃー、おまえ無理だろ!!」って思いましたよ。もう志願者が4人とか5人とか、そういう問題じゃなく、単純に彼が発表会でクラス全員が歌う歌の伴奏をするっていう事自体が、どう考えても無理だろうと。
しかし彼は珍しくやる気になってて、「この曲を来月までにきっちり覚えて、最終試験でどうしても4人の中から選ばれたいんです」と意気込んでる訳です。ならばここは俺もまがりなりにも『ピアノ教師』という肩書きが付いた以上、このダメ生徒にレッスンを施して、発表会でクラスの代表としてピアノを弾けるようにしてみせようじゃないか!と初めて我々2人がスクールウォーズ状態に入った訳ですよ!
よしゃー!という事で、その週から彼との猛特訓が始まったのです。と言っても、今までがひどすぎただけで、おそらく普通のピアノ教室とかからしたら、いたって普通のレッスンが始まっただけなんですけどね。
 
ここでピアノについての基礎知識を説明しますと、ごくごく当たり前の事ですが、ピアノっていうのは両手の10本の指をいかに有効的に使って弾くかというのが、最も基本かつ重要なテクニックなのですね。
でも、これが意外と難しい事なんですね。やっぱり最初の内は人さし指や中指だけで弾いた方が楽なんですよ。コンピューターのキーボードとか打つ場合もそうでしょ、慣れて無い人って、全部を2〜3本の指でやろうとするじゃないですか。上級者になればなるほど10本の指をうまく使って早く打つじゃないですか。
この『10本の指をいかに使うか』っていうのが、曲が難しくなればなるほど重要になってくるんですね。
例えをあげるとですね。下からドレミファソの5音を弾くとしたら、普通に5本の指で弾いていけばいいじゃないですか。でも、ドレミファソラシドの8音を弾くとしたら、どっかで指をクロスして足して行かないと弾けない訳ですよね、指は5本・音は8個な訳ですから。あるいはもう片方の手の指で補足したりとかね。
ほんとごくごく当たり前の事ですが、この、指をクロスさせたりとかっていうのが、全く基礎が出来てない人にとってはすごく難しいんですよ。
 
さて、そんでもって僕の生徒君はですね、まさにその基礎というものが全く出来てない訳ですよ。今まで練習と呼べる練習は全くしてない訳ですから。
だから両手の10本の指を効果的に使ってひかなくちゃいけないような曲になると、もうどうにも弾けない訳ですよ。そして、今彼が挑戦してるのは、中学生の音楽会の課題曲になるような曲な訳ですから、少なくとも左手で和音・右手でメロディーとか、あるいは左手でベースパート・右手で和音とか、とにかく常に両手合わせて10本の指をうまく使わないと弾けない曲な訳ですよ。
しかし彼はいくら俺が教えても、両手の指をうまく使う事が出来ないんですよ! 「このドを親指で押さえて、ミは中指で押さえて、そのまま指をクロスさせてソをまた親指で・・・」とかって説明しても、いくらやっても出来ないのね。
「こりゃー、もう駄目だな・・・」とあきらめてたある日、レッスンに行ってみると彼が嬉しそうに「先生すごくいい弾き方を思い付いたんですけど、やってみていいですか?」って言うんですよ。「いい弾き方???」と思いつつも、まあどんなものかとやらせたんですね。
すると「これ、音が多かったから無理だったんで、弾きやすいようにちょっと変えたんですけど、いいですか?」とかって言ってるんですよ。
「弾き安い様にちょっと変えた??」とこっちはまた理解不可能なんですが、まあとりあえずやらせてみました。
すると「これ、こう変えてみました!」って嬉しそうに弾き始めたかと思ったら、右手も左手も人さし指1本しか使わないんですよ!!
要は、常に同時発音数は最大で2つなんですよ! 左手の指でひく音1つと、右手でひく一つ・・・しかもそれを全部人さし指だけで弾いている。なんかもう電卓みたいになってる訳ですよ、動作が。これで音楽会でクラス代表として弾くって、そりゃー無理だろうよ!!っていう。そもそも、曲自体が完璧に簡略化されてる訳ですよ、初期のメロディー電報みたいな状態な訳ですよ、こんなの伴奏にクラス全員が歌えるか!!っていう。
もうこっちも呆れ果ててしまい、「まあ、それでいいんならそれでいいんじゃない・・・」って返す言葉もなく、今まで俺が教えてきた事はなんだったんだ??って状態ですよ。
 
その週間後、当たり前ですが、彼が悲しそうな顔で「音楽会のピアノは他の人になりました・・・」って言ってきましたけどね。しかもその後、その音楽会で選ばれた子や選んだ先生について散々文句とかを言ってましたよ、ひいきだとかなんとか・・・。でもね、どう考えてもそれってひいきじゃないぞ・・っていう。俺が小学1年生で初めて弾いた『メリーさんのひつじ』だってもうちっと指使ってたよ・・・。
そんな訳で彼の発表会での夢は見事に散った訳ですが、俺と彼の奇妙なピアノレッスンはさらに細々と続くのでした・・・。
 
さらに続く