集合住宅フェチ

大きな公団住宅みたいのを見ると、すごいパワーを感じるというか、なんとも言えない不思議な感覚に落ち入るんですよ。
一種の集合住宅フェチですかね、「やっぱり社宅より公団の方が感じる・・・」とかそんなこたーないんだけど・・。
 
なんかね、あの建物の中に何十・何百もの家庭があって、その一つ一つで違う物語(生活)があるんだなって思うとなんかこう、すげー!!って思っちゃうんですよ。
人間誰しも、自分の生活の中では自分が中心であり主役でしょ。
沢山の友達や仕事仲間、御近所さんや、あるいは好きな芸能人や憧れる生活なんてのがあったとしても、結局は自分の生活しか知らないし、その生活の主役は自分な訳でしょ。
 
僕も当然、本当の意味では自分の生活しか知らない訳ですよ。
 
それがね、大きな集合住宅を見ると、そこには僕の知らないいくつもの生活が入ってて、その一つ一つに主役がいる訳ですよ。それにすごく興奮するんですね(結局はフェチってことですかね)。
なんか、自分が今まで培って来た価値観が全て崩されるというか、全くなかった事のように打ちのめされるんですね。
だって、その住宅に住んでる何百人の人達は、俺の生活なんてどうでもいい訳ですよ、俺がその人達の生活をどうでもいいのと同じように。
 
それまで物語の主役だった自分が、大きな集合住宅を見た瞬間に、完璧なわき役というかその物語に登場さえしてないただの観客になってしまうんですよ。そこがなんとも快感なんですよ(やっぱりフェチですね、しかもMっぽい)。
 
だからそれと同じように、高い建物から街を観るのも好きで、地上数十階のビルの上から見ると、ほんとそこに数え切れない程の人や車・建物、そしてその一つ一つに違う生活や物語がある訳ですよ。
しかもそのどれ一つとして僕は登場していない。完璧に無視されてる状態。
それってほんと考えさせられますよね。
「なんだよ、俺ってただの地球の一部じゃん・・・」って思う訳ですよ。
 
まあそもそも自分をスターとも神とも思ってないですけどね、少なくとも自分の生活の中では主役でしょ、30年間連続主演男優賞な訳でしょ、自分内アカデミー賞では。
でも、それが実は全然意味無いものだったと気付く訳ですよ。
実は日本だけでも1億2千万のオスカーが存在したのか!
俺はその一つを受賞しただけなのか!って事に気付かされる訳ですね。
 
そのギャップというのがすごいと思うんですよ。
だからといって、僕らがいくらがんばっても他人の生活の主役にはなれないでしょ。
世の中には様々なスターや独裁者、教祖様なんかがいて、多くの人の生活に関わったりはしてますが、そうは言ってもやっぱり最終的にはそれぞれの人の人生の主役はその人自身なんですよ。
そういうのを身近で気付かせてくれるのが集合住宅なんですね、僕にとって。
 
すごい落ち込んでる時や、逆に浮かれてる時なんかでも、ちょっと散歩して大きな集合住宅を見に行って「あん中にはそれぞれの物語があって、喧嘩したり、愛しあったり、泣いたり、笑ったりしてんだな・・・」って思うとね、俺のも結局はその一つでしかないなって思って、良くも悪くも落ち着くんですよね。
 
こういう時に同じく沢山の人がいるからといって大きなオフィスビルとかを見てもあんまり感じないんですよ。
やっぱりそこは仕事の場であって、生活の場じゃないでしょ。
もちろんそれなりの物語は各々あるんだろうけど、やっぱり生活が剥き出しになってないんでしょうね、感じるパワーが全然弱い。
やっぱり主役が人じゃないと駄目なんだよね。オフィスビルは主役が会社だったり仕事だったりするから、一人一人の人生パワーは出てない。
 
遠い空に夕日が落ちる頃、父親は仕事から帰って来て、子供は塾から帰宅する。家ではお母さんが夕食の支度を終えた頃、ちょっとした丘の上に建つ集合住宅を線路沿いのベンチ辺りに座って眺めてみる。
なんかね、自分が抱えてたちょっとした悩みとかが、どうでもいいなーって思えたりするんですよね。