偶然と希望

平和でいたい!
楽しくいたい!
 
とまあ、こう願うのは普通の事であります。
 
最近、小・中・高時代からの友人からメールをもらったりすると、ほんとアホで笑っちゃうんだよね。
それこそビジネスの関係でもないし、逆に近すぎる友達でもないから、本当にお互いしょーもない事言えるでしょ。
そういう昔からの友達の、本当になんの意味も無いメール見て笑ってる時に、ふと思ったんですよ。
 
平和っていいなあ。。。
楽しいっていいなあ。。。
 
と、山田洋二監督『学校』における裕木奈江みたいな発言ですが、これほんと本音!
それでよくない?って思う訳ですよ。
 
しかし、わたくしもそろそろ大人ですから、どうやらそういう『平和』とか『楽しい』っていうのも、無償ではなく、無傷でもないということには薄々と気付いておりました。
例えば昔からの友人と焼き鳥屋なんかに行って、ワッショイワッショイ楽しいお酒を飲んでいる。
その時まさに「平和っていいなあ!楽しいっていいなあ!」と思う訳です。
しかし、待てよ!と。
 
俺らが楽しんでる時に、一人黙々と、煙モクモクと、焼き鳥を焼いている親父がいるじゃないかと。
俺らがワッショイワッショイ言ってる時に、一生懸命お酒を運んでくれる女将さんがいるじゃないかと。
そして、何よりも目の前に、すっかり焼かれた小鳥さんがいるじゃないかと。
この鳥にしてみれば、この状況って平和でもなんでもないですよね。
殺されて、切られて、タレ付けられて、何度も表裏にひっくり返されたりして備長炭の上で焼かれてる。
これ、全然平和じゃないですよね。
 
でも、それが現実ですよ。
誰かの平和って誰かの不幸で出来てたりする。
それが絶対的な現実だったりする。
 
本当にたまたま、僕らがその時ワッショイしてるサイドの人間で、もう一方が丸焼きにされた鳥だっただけで、もしこれが逆だったら最低ですよ、俺も自分の人生の最後が渋谷の焼き鳥屋・森本の炭火の上だったら、ほんと泣きますよ。
 
でもね、これが現実でしょ。俺が偉い訳でもないし、焼かれた鳥が悪い訳でもない。もちろん俺が酒飲んでる前で一生懸命仕事してる親父が俺より下な訳でもなければ、女将さんが親父の召し使いでもなんでもありません。あるいは俺らがいるその焼き鳥屋よりもっと高級なレストランに行ってるカップルの方が俺より上という訳じゃないし、ましてやそのレストランで焼かれてるフランス産の鴨がこの焼き鳥屋のブロイラーの鳥より偉いなんてこたーまったくありません。
でも、ほんとたまたま各々がその状況になってしまってる。
これが何か違ったら、俺が焼かれてるかもしれないし、女将さんはどっかの国で戦争してるかもしれない。鳥が首相になってるなんて事もある訳ですよ(楳図かずおの世界なら。。)。
いや、ほんと偶然、たまたまなんだけど、今いる僕らと生き物全てが、それぞれそういう立場になってるというだけ。
 
だからといって、僕が望んでる平和や楽しい毎日というのは偶然の産物ではなく、確固たる希望でしょ。希望しないと絶対訪れない。
つまりこの世の全てを『偶然と希望』と捉えるか、『必然と失望』と受け止めるかという違い。
僕はやっぱり前者を優先していい気がするんですよね。
 
偶然の重なりで得た友人や環境や自分自身、それをしっかり捉えて次の希望へとつないで行く。
たぶん、それを出来なかったら必然を語ったり、ただ失望してたりしても意味ないんだろうなって。だから焼かれた鳥に「すまん」と思いつつ、焼いてくれた店主に「ありがとう」と感謝しつつ、僕はその瞬間の幸せを100%受け止めようと思う訳です。