記憶の街作り

最近自分が一体どういう場合に人の名前を忘れているのだろう、と考えてみた。僕がパッと思い出せない人って、一体僕とどういう関係なんだろう?と。そしてそこにひとつの法則を見い出せば、ちょっとは記憶回復につながるんじゃないか!!と。
 
僕も当然親の名前・兄の名前・親しい友達の名前・毎日仕事を一緒にする仲間の名前なんてのはちゃんと憶えてます(基本的には)。じゃあ一体どういう関係の人達の名前を忘れる(というかパッと思い出せない)のだろうか。そうしてよ〜く考えてみると、おそらくその人と僕の関係の中に一つのクッションあるいは曲り角がある場合に思い出せないんじゃないか、という結論に達しました。つまり僕と兄というのはそこが直線で結ばれる言わば一親等の関係なんだよね(正確な意味では血縁関係としての兄弟は二親等です)。そこで例えば僕の知り合いではあるけど元々兄さんの友達という人は僕からの直接のラインではなく兄を経由してその人に行くから二親等の関係なんだよね、一つ角を曲った所に居る関係。その二親等以上の関係の名前を僕はパッと思い出せないんじゃないだろうかと思いました。
 
それは名前だけじゃなくて、事柄や様々な名称でもそうです。例えばマネージャーの名前とかでも、僕とマネージャーというのは一親等の関係ですよ。ただ普段僕はマネージャーを名前で呼ぶ事はまず無い。つまり僕の記憶の中のマネージャーの名前に行き着くためにはまずマネージャーの名字『木村』を思い出して、そこから木村さんの名前は何だっけ?という風にさかのぼって行く訳ですよ。そういう意味でマネージャー自体は一親等でもマネージャーの名前というのは僕の記憶の中においては二親等の場所にある訳ですな。だから思い出すのに時間がかかるし、時には思い出せない。
 
おそらく僕らが他人や事柄を記憶する時にその順序というのがあると思うのですね。例えばまず顔を覚える、そして今度その人の名前をその顔とつなげて覚える、次にそこから発生して細かい情報・出身地やら年令やらを覚えるという感じにね。まあその順序というのは人各々で、例えばアダ名から先に入る場合とかもあるよね。アダ名は知ってるんだけど本名は確か1回聞いた事あるんだけど思い出せないなあ、、、、とかね。まあとにかくそうやってなんらかの脈絡・順番を持って記憶していると思うんだよね。そして当然その脈絡の中で近くにあればある程早く思い出すし、遠ければ思い出すのに時間がかかる。
 
そういう中で僕は2親等以上の情報、一つ曲がり道をしないと行き着かない情報というのをどんどん思い出せなくなってる。例えば知り合いのバンドとかでも、その中で直接仲が良い一人はすぐ思い出せるけど、そうでない人はやっぱりなかなか思い出せない。○○がやってる△△っていうバンドのドラムの××、、、、となるともうかなり曲り角を過ぎていて、そこに行く途中で「あれ、この角は左に曲るんだっけ?右だったかな?」なんて記憶の迷路をさまよっているうちに迷ってしまい、結局脳みその中で5分くらい一生懸命探していた小さな僕から「駄目だ!!迷っちゃった!!もう見付からないよ〜!!」なんて連絡が入る。すると僕は諦めて言うのだ「ごめんなさい、名前ど忘れしちゃって!!何さんでしたっけ!!」と。
 
そう考えると人の記憶あるいは脳みそっていうのはある種、構造的には住宅街みたいなんじゃないかなあと思うのですね。記憶をする時というのは僕らはその街の建設大臣になるというか、まあいかに綺麗に整とんして街作りをするかというのをぎゃんばると思うのだね。君の脳みその中を一つの街だと考えて、その中心・つまり今色々考えたり思い出したりしてる所を駅とします。その駅を中心に、田中さんの家はここにしましょう、北田さんの家はバンド仲間という事でその隣にしましょうか、いや北田さんはこの間立てた『静岡出身者のマンション』の方に入れておいた方が後々思い出しやすいかもなあ、なんつー感じで自分の中で記憶の住宅整備をしていくんではないでしょうか。効率の良い人は高層マンションを立ててそこに同じジャンルの出来事をまとめたり、区画整備をして碁盤目状に街を発展させて行ったりするのでしょうね。だから後ですごく思い出しやすい。逆にそういうのが苦手な人はとりあえず一番新しく仕入れた情報を無秩序に駅周辺に並べていくから、その内えらい事になって何が何やら思い出せなくなる。ある意味デスクトップとかとも似てるかもね。
 
もちろんそういう記憶の住宅街は古くなればなる程、あるいは自分との関係が薄くなればなる程駅から遠くへ離れて行く(実社会と同じで新しいビル=新しい記憶は駅前のアクセスしやすい場所にある)。しかしどんなに駅から離れようとも、例えば20年前の友達であろうとも、彼の記憶がすごく鮮烈で、とにかく駅前の商店街をまっすぐずーっと進んだ所に住んでいるというのなら絶対思い出せる。逆にどんなに近くに住んでる人(=最近の情報)でも「駅前の道を右に曲がって2本目を左に入った突き当たりの右側のビルの6階」とかってなると思い出せない。そういう意味ではやはりさっき言った一等親・二等親という曲り角の数がやはり重要なんじゃないだろうか。
 
そしてその記憶の住宅街を「あの人の名前って何だっけ?」と探す時、つまり記憶を思い出そうとする時というのは如何に素早くその場所を探し出すかという記憶の街の案内人の実力にかかって来るんじゃないだろうか。つまり、いくら憶える時にしっかり区画整備をして綺麗に記憶の街作りをしても、今度それを探す時の案内人が全く訳がなからなかったらやはり思い出せないだろう。逆に言えばどんなに記憶がゴチャゴチャになっていても、この案内人がすごく勘の効くやつだったらそのゴチャゴチャの山の中から欲しい情報を素早く見つける事が出来るんじゃないだろうか。つまり物事を記憶する時の建設大臣としての自分と、それを思い出す時の案内人としての自分という二人の脳内自分がいかにしっかりしているかというのが記憶を正確に覚え・思い出すのに大切なんじゃないだろうか。
 
僕が酔っ払っている時というのは当然僕の中の建設大臣も酔っ払ってるからおそらくそこらの路地裏か何かに記憶を適当に投げ捨ててるんじゃないだろうか「いいよいいよ、ちゃんと並べんの面倒臭いしさあ。もうすぐ明日になるし、ここら辺に置いときゃ思い出すだろ!!」くらいにいい加減にそこらにその日の記憶を置き散らかしてるんじゃないだろうか。だから次の日一生懸命脳内の案内人が探すんだけど、どうにも昨日の記憶が見当たらない。それが泥酔した次の日何も憶えていないという現象なんじゃないだろうか。
 
そう考えるとこの二人の脳内自分のどっちが記憶というものにより大事かといったら、おそらく記憶をする方、つまり建設大臣の方なんじゃないかと思うんだよね。なぜなら、例えば酔っ払っている時でも何かを思い出すというのは結構出来る気がするんだよね。だけど酔っ払った時の事を後で思い出すのは難しい。つまり酔っ払っている時でも案内人の方はちゃんと記憶の街の中を案内して欲しい情報を思い出させてくれるんだけど、建設大臣の方は酔っ払ってる時はもう適当に適当に記憶を散らばしている。要は案内人の方はどんな状況でもある程度の仕事はしてくれてるのにも関わらず、建設大臣の方は酔っ払ったり歳とったりすると明らかに仕事がいい加減になる。だからお年寄りは最近の記憶が曖昧になっていく反面、昔の記憶はけっこうはっきり憶えていたりする。それはつまり記憶をする側である建設大臣の方は歳とともに衰えて行っているのにも関わらず記憶を探す側である案内人の方は歳とってもちゃんと仕事してるという事でしょ。
 
だからこの建設大臣というのをちゃんと鍛えておく、あるいは汚職なんてあったら辞任させてちゃんとした奴に代えておく(これはちょっと難しいけど、、、)必要があると思うのだね。僕はとにかく最近この自分の頭の中の記憶の街をマジで整備し直さないと、あるいはその建設大臣をマジでちゃんと鍛え直さないとちょっとヤバイと思ってるんだよね。
 
とまあ、言うのは簡単なんだけどね。きっとまたお酒飲んだらこんな事を思ったという事自体忘れてしまうんだろうなあ、、、、、トホホ